湯河原温泉は、万葉集で唯一うたわれた 長い歴史を持つ温泉です。
万葉集と湯河原温泉
日本には数多くの温泉がありますがここ湯河原温泉は、奈良時代、約1200年前につくられた日本最古の万葉集で唯一詠われた長い歴史を持つ温泉です。
足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに
万葉集 第十四巻・相聞
解釈「湯河原の温泉が、夜となく、こんこんと河原から湧いているが、その湯河原温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺の事を思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」湯河原地方は、その頃から土肥(とひ)と呼ばれていた。
湯河原温泉の発見説は、二見加賀之助重行による発見説、弘法大師発見説、薬師の湯由来説、役行者による伝説など諸説あります。
明治中期頃には、谷崎潤一郎、夏目漱石、芥川龍之介、国木田独歩や島崎藤村、などの文人たちが多く訪れる様になり昭和には大岡昇平・小林秀雄・丹羽文雄・獅子文六・石川達三などが訪れています。
雄大な自然の景観と豊かな山海の幸に恵まれ、行楽・静養に最適の地として多くの人々に親しまれてきた町並みを散策していると、そこかしこに偉大な文士たちの足跡と歴史の残り香を感じます。
夏目 漱石
芥川 龍之介
軽便鉄道湯河原停車場
湯河原温泉街
藤木川
藤木橋
うっそうと茂る樫、椎の木からこぼれる陽光、川のせせらぎ、野鳥のさえずり。この公園は森と水の公園として人々に親しまれています。
駅より2.9km、車で9分。温泉街の中心にある万葉公園の中には、数多くの万葉植物が植栽されています。万葉時代の古代建築を模した万葉亭、万葉集の中でただ一つの出湯を詠った歌碑、国木田独歩碑等があります。また、霊験灼なる湯権現熊野神社があり、温泉の神様として地元の信仰あつい神社です。
万葉公園
日本の歴史公園100選 認定
しとどの窟
治承4年(1180)、源頼朝は平家討滅、源氏再興の兵を挙げましたが石橋山の合戦にて敗れ、土肥実平に導かれて隠潜した巌窟が、この「しとどの窟(しとどのいわや)」です。 流れ落ちる湧水、苔むす岩石。 「土肥椙山観音像群」と呼ばれる多くの観音や石塔が立ち並ぶ、夏でも涼しい仙境です。
福泉寺の首大仏
元は名古屋城内にあり、戦後この「福泉寺」(ふくせんじ)に奉納されたという陶製の釈迦像。名古屋城主徳川光友公が、亡き母を弔わんとして造られたといわれています。名古屋にあったときには首から下もあったとそうですが、胴体の方はどこへいってしまったのでしょうか?
城願寺 土肥一族の墓所
城願寺は、土肥実平を祖とする土肥氏の菩提寺で土肥の館の持仏堂の跡に建ち、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、多重塔など数十基が立ち並ぶ土肥一族の墓所があり、各種形式、各年代にまたがる関東有数のものとして県の史跡に指定されています。
光風荘
昭和11年2月26日、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 「2.26事件」が発生しました。この事件で、東京以外で唯一の現場が湯河原の「光風荘」です。老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」に、当時の遺品や写真、新聞等の関係資料を展示しており、観光ボランティアによる施設案内を実施しています。
土肥城趾
箱根古期外輪山南側の主峰大観山から相模湾の湯河原方面に下降する尾根の、隆起した部分に設定された連郭形の城郭跡。土肥実平の城趾ではないかといわれていますが、歴史考証の決定打はない状況です。けれど、相模湾に沿う山麓部は小田原と伊豆山、熱海、韮山を結ぶいわゆる熱海道があり、源頼朝の石橋山の旗揚げにもうかがわれるように、古くからこの地方の重要な交通路、要衝であったとおもわれ、この城趾が旗揚げに加担した実平と何らかの関係があったと思われます。